黒と白のあいだの

多様性社会で生きる彼是をつらつらと書き連ねる。

良識が問われること。マナー違反を注意された時

例えばの話、自身がマナー違反を赤の他人から指摘された際にどう反応するのか?勿論のこと、何ら問題ない行為に対して不逞の輩から言いがかりをつけられただけなら無視や助けを求める対応でよい。

しかし、その地域のマナー違反をしてしまったのであれば、行ないを詫びて改めるべきだ。そんなもの言わずもがなであるけれど、いい歳の大人がそれすらできていないことが日々見受けられるのが嘆かわしい。

 

実例を挙げるならば、私が居住している地区や周辺一帯は路上喫煙禁止の公的な掲示物や注意喚起が至る所に施されているのだけれど、その目の前で路上喫煙をする輩。注意をすれば謝罪や反省はおろか、逆ギレをして吸い殻をポイ捨てして去っていく。良心の呵責など其処に存在しない。

 

未成年であれば若気の至りで更生の余地はあるのだろうけれど、40〜50歳台以上と思しきおじさん達がその生き様か?格好悪い、情けない。寧ろ子供のほうが悪いと気付いたら素直に反省できるし、正しく学んで真っ当に育っていってほしいと影ながら応援できるが…。

 

つい先程、警察(中年男性)がいるすぐ近くで何の公的権力も持たない私が路上喫煙者に注意をしたところ、路上喫煙者から逆ギレされ怒鳴られたのだけれど、警察は知らぬ存ぜぬの対応でその場から真っ先に離れた。

あくまでマナー違反への注意は業務管轄外なのだろうけれど、それで良いのか?己の身は己で守らねばならないということか?両者に対して、私は心底唖然とした。あの場で私が暴力を振るわれたあかつきには、責任の所在は何処になるのだろう…?

 

他人が余計な注意などせず、その場を離れれば被害を被ることは無くなるだろうが、それで良いのか?問題事を目の当たりにした時、人の本質が顕在化するのかも知れない。

イジメっ子、イジメられっ子、見て見ぬふりをする子、我が身かわいさにイジメに加担する子…。学校などで起こりがちな争いは、社会の縮図と例えても差し支えないと常々思う。

 

良識とは何ぞや?常に自問自答させられる昨今。善意で生きていても悪意を持つ者共の毒気に当てられてしまうと遣る瀬無く思えるし、違反したもん勝ちか、と道を踏み外しそうになる。

そうなってしまった人々が段々と増え、違反や犯罪行為の黙認、見て見ぬふりが横行してしまっては断じてならない。

 

若者の闇バイトや犯罪の片棒担ぎ、大規模な不正や秘密裏の犯罪行為…。社会問題は過去の遺産、というより寧ろツケを払う時代が来た結果なのだろう。

因果応報、だとしたらそんな悪循環を個々人が終わらせる努力をしなければなるまい。自衛しつつも、問題を他人事として見て見ぬふりをせず当事者意識を持つほうがいい。

 

悪いことしたら『ごめんなさい』を素直に言う。それで反省して改める。社会性を持つ生き物である人間の基本中の基本。人としての当たり前ができない成人が少なくないけど、せめてそれぐらいはしっかりしろと言いたい。

【当たり前⇛有難い】幸福感の水準は低いと寧ろ良い

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「ありがとう。」最近、そんな風に感じて言葉に出したのはいつですか?

最初のうちは有難いと素直に思えていたことでさえ、慣れてしまうとそれが当たり前に変容してしまいがちなもの。

どれほど富や名声に恵まれている生活を送っていたとしても、日々感謝を覚えることがないと満たされた気分には到底なれないもの。他人からみて何不自由のない生活のように見えても、本人はそれとは裏腹に空虚感に苛まれていることも往々にしてあるのでしょう。

自分自身の素直な気持ちで、ありがとう、って思えること。それこそが幸福感の最重要因子なんだろうな、ってつくづく思います。

 

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当方も昨年までは生活に於いては特段不自由することなかった一方で、以前の職場での人間関係等々に苛立ちを感じ続け、常に満たされないまま生きていた時期が長くありました。今年に入り生活環境や仕事も様変わりし、恥ずかしながら金銭的な苦労も経験し人生のどん底に近いぐらいに陥りもしました。

苦しい、辛い。でも、だからこそ、幸福や有り難みを感じる水準も大幅に下がったお陰で当たり前だと感じていたことが如何に有難いか骨身に沁みる大きな経験値となりました。

(だいぶ語弊が生じてしまうけれども、)金銭的な苦労をしたことがない人は一度だけでも困窮を体験することで、心もより一層豊かになるのではないかと(誠に勝手ながら)思うのです。


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物騒なことが言いたいわけでは断じてありません。然し乍ら、結局人って頭ではわかっていることでも、自分自身で経験しないと痛みや苦しみが実体験のレベルまでは理解が及ばないものです。

そう、数え切れない程の苦労や失敗や挫折を経験すると他人に対する理解や共感が高まるという側面もあるのです。

とどのつまり、苦労を経験することでそこから這い上がったあとの幸福への感度が向上するもの。若しくは、実際には不自由なく暮らしていても様々な存在や事柄に感謝や敬意をもって生きるほうが良い、っと信じています。

 

不遜や傲慢は、力による支配は一時的にできていたとしても、いつの日か大事なものを失います。「損して得取れ」とは少々ニュアンスが異なるけれど、多少不利益を被ることがあっても、為人を信用してもらうためには道徳心は必要不可欠。綺麗事述べてるだけに思われるかも知れないけれど、先ずは自分が気分良く過ごすために、取るに足りないと感じることにも感謝の心を意識してみてほしい。

格差社会となりつつある日本で気持ちにも余裕のない人々が増えている時勢だからこそ、「ありがとう」こそが人生の潤滑油となり得る、と信じて止みません。

【なんの日】甘いものを食べよう【アイスクリームの日】

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明日5月9日(火)は、アイスクリームの日。

幼少期は勿論のこと、大人になった今でもアイスクリームは私にとっての正義の味方(?)だ。

不注意で溶かしてしまったり地面に落としてしまったり、時には己の過失により悲しみを齎し得るけど、いつだって食べれば心を満たしてくれる存在だ。

冷たい、甘い、美味しい。三拍子揃った万能選手。

見れば心を踊らせ、食べれば心を満たしてくれる。

毎日の食事ほどすぐ側には居てくれず、それでも程よい距離感で居続けてくれる。

 

有り難いことに、それは今も変わらない。

そんな彼等(?)には、然るべき記念日が制定されていた。

5月9日 - Wikipedia

アイスクリームの日(  日本)社団法人日本アイスクリーム協会が1965年に制定。日付は1964年のこの日に東京アイスクリーム協会が記念事業を行い、諸施設へアイスクリームをプレゼントしたことに由来。1869年に町田房蔵が横浜の馬車道通りに開いた「氷水屋」で日本初のアイスクリーム「あいすくりん」が製造・販売された日を記念した「アイスクリームデー」の名称で、PRを兼ねて社会奉仕が行われていた[18]。初販売は7月とされている[19]。


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当時は今ほど日常に溶け込む存在では断じて無かっただろうに。

昔から憧れだったり愛すべき存在なのは変わらなかっただろう。

製造されるまでの原料やら製造工程やら、ある程度のことは知識が増えれば想像に容易くなってしまう。

それでも、幼心にどストレートに訴求してくるあの力強さや幸福感は何だろう?

とどのつまり、極論にはなるけれど、美味しいとは万国共通の正義になり得る、ってことなのだろう。

 

結局、いつまでも子供時代のワクワク感を時には思い出し、素直にそれに浸るときだってあっていい。

寧ろ、そのほうがいい、だなどと思った。

諸事情あってアイスなどの甘いものを食べれない人だっているだろうから、記念日に其れ等を食べることのみに限らず、最低限には人目を気にしつつも、童心にかえるもまた一興。

ほぼすべてのものが値上がりし、生活は楽とばかり言えない昨今、それでも些細な幸福を見つけることこそ肝要。

【光陰矢の如し】大人も"大した人"とは限らないってこと【画竜点睛を欠く】

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「光陰矢の如し」、そう、自身で年齢を重ねるに連れて、体感値での年月の経過が早いと感じるようになってくる。

幼少期は楽しく遊んでいる時間はあっという間に過ぎるけれど、一年単位でみると然程早く経過した印象はなかった。

だが、しかし、大人になるにつて、如何せん楽しいとは思えない義務に追われるときはその数時間が苦痛で長ったらしく感じる一方、一年どころかある程度の年齢を過ぎてからの数年間があっという間のように感じることが多々ある。

その実、過ぎ去っていった数年間の間に残せたものや積み重ねてきたものは何ぞや?だなんて疑問やら自己嫌悪の類に苛まれることすら、粗不可避に近いものですらある。

 

2023年も早いもので、本日は4月25日。

今年も115日目となり、残すはあと250日となった。

文字に起こしていて些か切ない気がしてくるのは断じて気の所為ではない、、筈。

嘆いていても仕方ないけれど、こういったもどかしさを抱えつつもなんやかんやで日々生きられている、っていうのが世間の大人の多数なのではないかな?だなんて自身を騙しつつ生きている今日この頃。


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結局、子供の頃は非現実的な夢をいくらでも見れたし、「いつか叶う」だなんて努力の有無はさておき無責任に考えていられた。

正直無邪気に遊べる子供でもなく斜に構えて閉じこもりがちな幼少期だったから、少年時代に戻りたいとは思わない。

寧ろ大人になってからのほうが自由を感じられてよき。

これもわかったことだけれど、大人やいうても殆ど中身は進化してない人のほうが多い、みんな程度は違えど人間である以上単なる動物の一種に過ぎないし、それゆえに完璧なんて偶像でしかない。

愛すべきバカもいれば、救いようのないほどのバカもまたいる。

諦観では決して無いけれど、結局、人間とはそんなものでしかないから、だからこそ誰でも人生のすべてを一人だけでは生きられないように仕組まれているのかも?

 

自信や慢心のみで自らを客観視できない人は挫折を味わってみればいいし、自信がない人は他人に対してみんな大差ないってほんの少しだけ舐めてかかってみるといい。

まだ生かされている以上は今生でやるべきことでも残っているんだろうけれど、今後も不完全な人間で生きて、少しでも過去の自分よりは学びや気づきを増やしていければ及第点ではある。

 

何者かになれたか?なんて、人生終えたあとに振り返れるものならそうしてみればいい。

生きている間は、一角の人物になれはせずとも、生活を続けることだけで決して赤点やら落第にはならないと自分を赦してやる、それを心がけるだけでまともなのだ、ってのも大人になってわかってくるもんだ。

 

【予祝】引き寄せの法則に思いを巡らせてみた

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「予祝」:豊作や多産を祈って,一年間の農作業や秋の豊作を模擬実演する呪術行事。農耕儀礼の一つとして〈予祝行事〉が行われることが多い。あらかじめ期待する結果を模擬的に表現すると,そのとおりの結果が得られるという俗信にもとづいて行われる。小正月に集中的に行われ,農耕開始の儀礼ともなっている。一種の占いを伴うこともある。庭田植(にわたうえ),繭玉(まゆだま),粟穂稗穂(あわほひえぼ),鳥追,成木(なりき)責めなど地方色豊かなものが多い

予祝(よしゅく)とは? 意味や使い方 - コトバンク

 

この言葉の古来の意味としては上記引用の通り、豊作を祈願(≒前祝い)してするために行われるものであったそう。

願掛けのようなものだし、現代の日本のように食料等の物資が飽和状態にあったわけではなかろうから、其の様な儀式が行われていたのは至極当然なのだろうとさえ思う。

食料も当然長期保存は厳しいし、穫れなければ食べれない。

現代人には想像し難いけど、そんな時代だったのだろうし。


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情報ツールや人工知能の進化に伴い、現代では文明の利器の恩恵を至るところで享受できる。

其れは本来贅沢なことであり、当たり前な事ではなかった。其れが当たり前な今、そしてこれからの時代。

物質やデジタルサービスは供給過剰になりつつあり進化し続ける一方、精神的な満足は人によりけりなのが現状。

SNSで承認欲求を満たすための実生活と乖離した虚像だったり、その辻褄合わせとして苦境を強いられる実像。

キラキラした日常を過ごしているような(ように見える)人は、過去に血の滲む努力をしたか、想像を絶する苦労をしたか、だったりもする。

他人からは側面を1つか2つぐらいしか見る事ができないので本質なんぞ殆どがわからないよ。

 

人生はトータルでプラスマイナス0だなんて言うけれど、言ってしまえば過去やら現在の状況は捉え方次第で何方にも大きく振れ幅を変えることができる。

だったら、可能な限りプラスに解釈して感謝していけば雪だるま式にプラスの出来事や感情が増えていくのでは?

「現在どん底にいるんだが?」って思っている人とているだろう。

でも、だからこそ、表題に記した”予祝”という望む現実を手に入れたことへの前祝い(祈願)をする価値はある。

本当にどん底にいると思ってるなら全てに於いて諦観を持たず、何某かの習慣を変えたらいい。

何も変えなければ大逆転なぞ起こる可能性は限りなくゼロに近い。


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祈願する際の注意点として、既に手に入れたイメージを強く持ち、現在進行系での感謝をすること。

(例:「望んでいた生活を手に入れました。ありがとうございます!」)

※(「現状●●●●●がないので、こうなりたいです!」っていう表現だと事実であっても、今は足りていないという事に等しいから、この場合良くはない)

足りないことを意識してしまうと、反骨精神に昇華できればいいけど多くの人ってそんなに強くないから気が弱ってしまいがち。

巷でよく言う引き寄せの法則の原則として、望むことを叶えた自分を潜在意識にまで刷り込むことが大事らしい。

叶った先の人生をイメージして、其れに関連する恩恵をいつでも享受できる準備(遠慮せずにチャンスをすぐ掴む気持ちになる)をすることもまた然り。

 

机上の空論だとか胡散臭そうだと思う人もいるのは理解できるけど、全てに対して何ら疑念を持たなくなったら騙される可能性も格段に上がってまうから、自身の審美眼を養うのは何に於いても必要。

予祝のルーツを鑑みると食べて生きていく為に必要な儀式ではあったけれど、現代では精神面での豊かさを育てていく為にあると望ましい。そんな風に時代の変遷に合わせ、概念的にも変化したのかな、とこの記事を書きながら思った。


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生きていると理不尽やら不平等やらを被ることは少なくないもの。

少々駄文長文になってしまったけど、言霊とも言うように言葉が持つ力は人生に大きく影響するもの。

それゆえに、何があっても不貞腐れたり自暴自棄になってしまわずに、善意を持って綺麗な言葉を使うことを心掛けてほしいし、自身もそうありたい。

言行一致させることと、人としての心を捨てずに生きること。

耐え難い辛いことがあるなら、先ずはその環境から逃れて休むだけでもいい。

泣いた分は後に取り戻して笑えばいい。

明けない夜はないし、止まない雨はない。季節は過ぎゆくともまた巡るもの。

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【共生社会への道】自己犠牲の精神を手放すってこと

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他者や社会へ奉仕する。

それは高尚なことであり、自ら進んで取り組める人は立派だ。

しかし、内心活動してゆく中で違和感や自己犠牲に伴う苛立ちやらを感じているのであれば、いずれ歪みが生じてしまうもの。

そうなると本末転倒だし、表現として語弊は生じるかも知れないけれど、"ミイラ取りがミイラになる"ような結果になりかねない。

 

何故だろうかと日々思う。

周囲への気配りができ慈悲深い人ほど負担過多になったり、搾取されてしまうことが往々にしてあるのは。

人なんて皆未完成だし、誰かしらに迷惑を掛け合わないと生きてはゆけぬものではあるけど、それでも矛盾や不条理が蔓延っているのが世の常。

 

人を救うには先ず以って自分自身が満たされている状態でないといけない、というよりさもなくば共倒れしてしまうから。

どうしたって優しい人は無理ばかりしてしまいがちだけれど、それではいかん。

 

勧善懲悪を説いてしまいたくなるけどそれはさておき、何よりも先ず休養する事の重要性を考え直してほしい。

いつぞ目にした受け売りかは覚えてはいないけれど、以下のフレーズは肝要と思うので記しておきたい。


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" I love you . "を言うには、先ず"I(私)"を最初に言わなければならない。"

日本語では一人称や二人称を言わずして会話を進めるのは容易だけれど、言語を変換するだけでも視え方が自ずと異なってくる事があるもの。

言葉のあやだと思われるかも知れないけど、他人に愛情を持って接するには自分を優先させるのも大事だ、ってことを指しているとも取れる。

 

結局、人間である以上全てに於いて限界はある。

でも、だからこそ、先ずは大事な存在を助ける為に自分自身を労ってあげることが最優先すべきことだ。


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何を差し置いても力になりたい、其の気持ちほ何よりも尊い、けど…ね。

善にこそ余裕が必要。

私自身が社会人として幾許か見聞した世の中は、歪んでいれども僅かな善が存在していて、一縷の望みを見出せるものだ。

【人生の目的と手段】"生きる"と"働く"を天秤にかけて

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ライフワークバランス。

令和の今、只管働き通しで私生活の一切を犠牲にする人は嘗てより大幅に減少した筈。

確かに、生活の為には労働によって稼ぐお金等の資本は必要不可欠"では"あるのは事実。

だが、唯一無二の資本である健康を蔑ろにしてまでも其れを続けるか否か?

その問に対する解については推して知るべし、とあくまで個人的にはだけれど、思う。

 

幼い頃の自身を回顧したとき、大人になった今とは価値観が90°以上異なっていた部分がハッキリとわかった。

俗に言う”いい子症候群”の気質が強く、常に周りの顔色を伺い、意思表示の殆どを抑制するよう努めていた。

結局、其の類の気遣いは同年代の子たち等から好まれるでもなく、寧ろ思うままに生きる子供らしさのない者として上手く周囲に同調出来ず終いだったのだ。


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皮肉なもんだけど、自分が周囲のために気を配っても、相手方が求めるものって往々にして異なりがちなもの。

過ぎたるは及ばざるが如し、を体現するが如く、"自己中"と"気にしすぎ"は同族としてカテゴライズされることもあるのだと改めて思った。

 

そんな彼是を自身が長年苦心してきたから、大人こそ倫理道徳は念頭に置きつつも自身の興味関心に正直に生きてゆくべきでは?と考えるようになった。

些か話は脱線したけれど、好きでもないことで消耗して人生が終わってしまったら、本末転倒でしかない。

一般的に言われているように、気付いてから始めるのに遅すぎることはない。

その時から即時行動に移しさえすれば、それだけでもスタートダッシュに成功しとる、って思う。


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仕事はあくまで人生をよりよく過ごす為にお金等を稼ぐ"手段"でしかない。

だから、その手段がゆえに人生詰んでしまったら本末転倒なんだろな、と考えるようになった。

ただ、不可抗力でその手段を見誤ってしまうと抜け出すことに苦悩してしまう。

生真面目な人ほど損を被ってでも責務を全うしようとしてしまうこと、正直者が馬鹿を見てしまいがちなことが悲しい。

 

どうしても違和感を感じるときは、一度休んで立ち止まるなり、環境を変えるなりして然るべきと思う。

結局、人生の”目的”って一度しかない自身の生涯を全うすることだから。

嫌な仕事やらなんやらを惰性で続け、その後の人生に支障をきたしてしまったら勿体ない。

 

好きな事をやろう、本当に嫌なら逃げよう。

正直者ほど幸せになってほしい、そんなことを思い書き連ねた今日この頃。