黒と白のあいだの

多様性社会で日々生活していく上での彼是をつらつらと書き連ねる

これからの地球環境の為、個々人が日々取り組めること

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唐突に問いを投げますが、上の画像2つを見て、如何思われたでしょうか?

些か心が痛んだり、環境問題について思案されるだろうか? はたまた何も感じないだろうか?

日本は経済的には一応現在でも先進国には分類されるのかも知れんけれど、一方で環境後進国と揶揄されるような環境問題への意識の低さは否めんのでしょう。

外を歩くと秋〜冬の季節の変遷を趣深く感じる一方、ごみや吸い殻や使用済みマスクがポイ捨てされているのをざらに見かけてしまい、遣る瀬無い気分にもなってしまう今日この頃。

 

日々の鬱憤を晴らす為だとかで遊ぶことは何等の問題はない。でも、其れと此れとは話が別。

何処彼処に不要になったものを不法投棄して良いわけなど断じてない。

恰好だけ海外セレブを真似たとしても内面が薄っぺらく周囲への気配りのできない者は滑稽でしかないし。

そういう輩には何を言っても徒労に終わるだろうから、少しでも将来に向けて改善していきたい人たちが日々やるべきこと(月並みだけれど日常生活でも取り組める範囲)を列挙しておきたい。


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☆買い物するとき

  • 食べ残し(フードロス)を減らす ⇔ 期限内に確実に食べ切れる量を買う
  • ただ単に"欲しいだけのもの"よりも生活するのに"本当に必要なもの"を買う
  • 過剰包装を極力減らすよう心掛ける

☆廃棄するとき

  • (言うまでもないけど)ポイ捨てや不法投棄の類をしない
  • プラスチックごみを意識的に削減する
  • ごみを確り分別してルールに則って指定日に棄てる

☆動物に関して

  • 考えも無く野生動物に餌を与えない
  • (やむを得ない諸事情があっても)ペットをすてない
  • 野良猫や烏の餌になりそうなごみを外に放りっぱなしにしない

☆工夫次第で楽しめること

  • 包装紙や容器など、工作に充てる用途を考えてものづくりや芸術に昇華させてみる
  • リサイクルできるものは分別して、ポイント還元等に充てられるか調査する
  • 日々のSDGs関連のニュースに関心を持つ


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以上、上記すべてをいきなり徹底はできなくとも日常少しずつでも意識してゆけば決して難しくはないものと思う。

結局は一人だけで改善に向けて即時有効なものは殆どないけれど、だからこそ大勢が少しずつ変えてゆくことで結果的に大幅に改善できる問題だってこと。

地球に優しく生きるのは、巡り巡って将来の自分への投資にもなるのではなかろうか?

今一度考えていってほしいと切に願う。

勤労への感謝、それ以上にご自愛を。

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来週水曜日、11月23日(水)は、勤労感謝の日

何某かの労働ができること、もとい、世の中の職務に日々従事しているすべての人々への謝意を表する気持ちを今一度意識的に持ちたいと思う。

(職業等の諸事情に因るけれど)斯くの如き祝日にも労働を要する人々が数多いらっしゃるのは些か皮肉なものだなとは思うけれど、だからこそ誠実に働いてくれている人々に対する感謝を再認識していたい。

 

勤労感謝の日 - Wikipedia

勤労感謝の日(きんろうかんしゃのひ)は、日本の国民の祝日の一つである。日付は11月23日。

昭和時代(昭和23年以降)および令和時代においては1年で最後の祝日となる[注釈 1]。

概要[編集]
勤労感謝の日は、国民の祝日に関する法律祝日法、昭和23年法律第178号)[注釈 2]第2条によれば、「勤労をたつとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」ことを趣旨としている[1]。同法により制定された。

由来[編集]
日本では古くから、天皇が新穀などの収穫物を神々に供えて感謝し、自らも食する「新嘗祭」(にいなめさい)という祭事が行われてきた。

新嘗祭は、1872年(明治5年)までは旧暦11月の二回目の卯の日に行われていた。太陽暦グレゴリオ暦)が導入された1873年明治6年)になって、旧暦11月の二回目の卯の日は新暦の翌年1月に当たり都合が悪いということで、同年11月の二回目の卯の日であった11月23日に行われた。同年公布の年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム(明治6年太政官第344号布告)[注釈 3]によって、祭祀と同名の休暇日(休日)となった。本来、11月の二回目の卯の日は11月13日 - 11月24日の間で変動するが、翌1874年(明治7年)以降も祭祀・休日ともに11月23日に固定した[注釈 4]。


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普段、無理や我慢をしすぎて疲弊などしてはいないだろうか?

労働は感謝されるべきものだけど、一方で仕事や収入なんてものはあくまで幸せに生涯を全うする為の手段でしかないのに、その所為で人生を棒に振らされてしまう人もいる。

気質に合わない仕事だったり劣悪な環境だったり、要因は様々あるのは想像に容易い。

肉体的にも精神的にも無理や過負担を強いるべきでないのは明白なのに、他人同士の集合体である環境では、如何せんそのような不公平は大なり小なり発生してしまうのだろう。

だからこそ、"生きる為の手段である労働""本来の目的である幸せに生きること"を台無しにせぬよう、普段から意識的に自分自身を労ってあげてほしい。


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もしも今仕事に悩み苦しんでいるとしても、結局のところ生きてさえいれば何らかの手段は見つかる。

☆嫌な仕事やコミュニティからは、罪悪感など捨てて早めに逃げる方が良い。

☆幸せに生きることからだけは、決して逃げたり諦めたりしてはならぬ。

単なる綺麗事のようだけれど、それだけは念頭に置いておくとよいと信じている。

 

蛇足だけれど、令和では年内の最後の祝日は"勤労感謝の日"が其れにあたるんだな、と平成世代は考えを巡らせざるを得ない、気がする。

"聖人たちの夜"。祝祭は礼節をもって。

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明後日、10月31日(月)はハロウィーン

コロナ禍も一旦は落ち着き水際対策も緩和されたのも相まって、街は賑わいを取り戻してきてる。

記録的な円安やら物価高騰やら、不安材料は決して少なくないけど、時折は其れ等一切を忘れて気分転換をするも良き。

(この祝祭に伴い、スイーツも期間限定のフレーバーが売られることが何よりも楽しみな今日この頃だけれど。)

 

閑話休題ハロウィーンの本来の意味は、以下引用文にて:

ハロウィン - Wikipedia

ハロウィン、あるいはハロウィーン(英: Halloween または Hallowe'en[※ 1][※ 2])は、毎年10月31日に行われる、古代アイルランドに住んでいたケルト人が起源と考えられている祭りである[1]。現代では特にアメリカ合衆国で民間行事として定着し、祝祭本来の宗教的な意味合いはほとんどなくなっている。カボチャをくりぬいて「ジャック・オー・ランタン」を作って飾ったり、子どもたちが魔女やお化けに仮装して近くの家々を訪れてお菓子をもらったりする風習などがある[2]。

キリスト教の祭ではない[※ 3][※ 4][※ 5]。ハロウィンに対しては、本来、キリスト教にとっては異教徒の祭りであることから、キリスト教教会においては、容認から否定まで様々な見解がある(後述)。

 

概要[編集]
ケルト人の1年の終わりは10月31日[3]で、この夜は秋の終わりを意味し、冬の始まりでもあり、死者の霊が家族を訪ねてくると信じられていた。死者の魂は、幽霊や妖精、悪魔などの姿をしており、家に戻ったときに機嫌を損ねないように食べ物や飲み物を用意しておくのが伝統である。また、子どもが悪魔やお化けなどの怖い仮装をすることで、死者の魂に気づかれないようにしていた[1]。これに因み、10月31日の夜、カボチャ(アメリカ大陸の発見以前はカブが用いられた[4]。スコットランドではカブの一種ルタバガを用いる[5]。)をくりぬいた中に蝋燭を立てて「ジャック・オー・ランタン(Jack-o'-lantern)」を作り、魔女やお化けに仮装した子供たちが近くの家を1軒ずつ訪ねては「トリックかトリートか(Trick or treat. 「お菓子をくれないと悪戯するよ」または「いたずらか、お菓子か」)」と唱える。家庭では、カボチャの菓子を作り、子供たちはもらったお菓子を持ち寄り、ハロウィン・パーティを開いたりする。お菓子がもらえなかった場合は報復の悪戯をしてもよい、とされている[6][7][8]。玄関のライトを点けている、またはハロウィンの飾りつけをしていると訪問してもよいという意思表示になっており、それにもかかわらず断る家主とは悪戯の攻防戦が繰り広げられる[9]。これはあくまでも電気が点いている家に対してであり、そうでない場合はがっかりして立ち去るのがほとんどである[10]。

カトリック教会の諸聖人の日がハロウィンに重なる形で設定されており、これを「カトリック教会が(キリスト教からみて)異教の祭を取り込んだ」とする見方と、「カトリック教会が(キリスト教からみて)異教の祭を潰すために設定した」とする見方がある[要出典]。いずれにしてもハロウィンは元々キリスト教の祭ではなかったことが両見解の前提となっている(後述)。

 

語源[編集]
Halloweenという単語はロバート・バーンズの詩『ハロウィン(英語版)』(スコットランド人によって伝統的に暗唱される詩)の表題として見られる。
Halloween」または「Hallowe'en」という単語はおおよそ1745年に遡り[11]、キリスト教徒起源である[12]。単語「Hallowe'en」は「聖人達の夜」を意味する[13]。この単語は「All Hallows' Eve」(諸聖人の日〈All Hallows' Day〉の前夜)を指すスコットランドの表現から来ている[14]。スコットランド語では、単語「eve」は「even」であり、これは「e'en」または「een」に短縮される。時がたつにつれて、「(All) Hallow(s) E(v)en」が「Hallowe'en」へと変化した。「All Hallows」という語句は古英語でも見られるものの、「All Hallows' Eve」それ自身は1556年まで見られない[14][15]。


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祝祭や記念日の由来やら古来行なわれていたことを現代に照らし合わせると、ものにもよるけれど大なり小なり禍々しさだったり解し難い宗教的背景だったり、手放しに喜べないものだってある。

また、現代社会でその全てを勘案して仰々しくするのは時代錯誤だと見做され疎まれるだろうことも想像に容易い。

だからこそ、楽しむなら日頃の鬱憤を解消するべく楽しむ。

そのうえで周囲の人達や街の美化には悪影響を及ぼさないことぐらいはして然るべき、っていうのが現代まで継承され途絶えることない文化へのせめてもの礼儀なのかな?っと昨今の繁華街でのイベントに対して思う。

 

筆者が学生時代に通った渋谷、特に懸念されるものがあるからこそ祭りと暴挙の境界は確り線引きして治安の良い東京の観光地として様々な人達に訪れてもらいたいな、っと切に願っている。

思うことは多々あれど、取り敢えず美味しいもの食べて働いて、あと2ヶ月余りの2022年を無病息災で乗り切ってゆく所存。


 

生きやすさの解 ≒ 競争から逸脱してみること

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マイペースで進めれば良い。この時代だからこそ、そう、思う。

焦燥、羨望、嫉妬、猜疑心。其れ等の感情が快方へ導いてくれることは、極稀だから。

 

ここ最近の私生活での行動で裏目にでるケースが多く、此方は善意でやってるのになぜそうなる?などと苛立ちを覚えがちだった。

そんなときは、どこかで独善的な正義感や義務感で動いた自身を疑い、好き勝手にマナー悪く生きた者勝ちになるのか?などと嫌気が差してしまう。

だからこそ、誰かと比較する生き方だとか、世間一般の標準に至っているか否かだとか、そんなんを度外視するのが生きやすさに繋がると改めて思う。

 

資本主義的な世の中では、知能指数の高さや学術的な得手不得手なんてずば抜けていなければ然程のアドバンテージにはなり得ぬもの。

細かい配慮ができるとか聞き分けがいいとか、そんな長所とて環境を間違えると都合よく利用されるだけで終わってしまいかねない。

結局のところ如何に傲慢で利己的だろうと、地位や名声があれば大概のことは看過されてしまいがちだし。


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であれば、(社会の落伍者になるつもりはないけれど、)自分にとって本当に必要ではない見栄だとかプライドは手放すのが生きやすさの解なのでは?

人は社会的な生物なので、人里離れた地で籠もる仙人にでもならない限り一切の関わりを断つことはできない。

とはいえ、マウントを取り合う上っ面だけ塗りたくった泥沼化した関係なんぞ以ての外なので、本当に譲れないものでなければ執着することなく手放してゆくことこそが身軽な生き方に思えた。

 

人により賛否両論あるのは重々承知の上、労働やら住まいやらの社会性は保ちつつも、競争社会からは少しばかり降りてく。

達観した気持ちで情勢を眺めつつ、日常の些事にも喜びや趣きを見出す。

現段階での実現するには容易且つ難関な目標であり、それに向けて心穏やかな生き方を実践しようとしている今日この頃。

本当に大事な物事は捨てられないし譲れない。

だからこそ、本質的な要不要を見極めて断捨離することで軽やかに靭やかに生きてゆく最適解になり得るんだろう、と信じてやまない。

不思議な出会いも大切にしたいと思った話。

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ここ最近、不思議な偶然の出会いが多くある(ように感じる)。

単に会社勤めを辞めたことで比較的自由な時間に活動しているからなだけかも知れんけど。

偶然だとしても琴線に触れるような出会いは必然性のあるものと捉えたいがゆえ、何らかのご縁かと勝手に解釈することにしている。

 

先ず一つ、近所の野良猫(冒頭の画像のように耳の近くに斑模様がある、白ベースの毛並みで奇麗な瞳の猫)が自宅のベランダによく来るようになった。

先月頃から近所の公園周辺ではよく出くわしていたけれど、ちょいちょい外を眺めながらPC作業をしていると窓の外に居るのを確認できる。

一応は野生動物なので、安易に餌は与えては結果的に可哀想になるので決して餌付けはせん。

懐いてはいない、、のか?(ベランダに出て呼びかけると近くまでは来るけど、決して触れる距離までは来ない。)

"目的はなんぞや?" 聞き出せるものなら問うてみたいと思うけど、このぐらいの距離感がお互い丁度いいんだろう、多分。

取り敢えず食べ物も出されないのに来るってことは、まあ悪くは思われてないと仮定しておく。

そんな"良い加減"なご近所付き合いが増えたってことを良きと感じた。

 

次に、先週地元のバスに乗った際に見知らぬ洒脱な年配の貴婦人から話しかけられて喋り込んだこと。

小雨が降っており少し肌寒い日だったからか天気や気温の話から始まり、"仕事辞めたあとで人生遊び尽くすのが楽しい!"とか、"知らない人と出会って喋ることも大事よね"、とか、数分前まで面識も全くない人だったが頗る楽しく談笑できた。

再会する確証なんてないけれど、御婦人が降車される際には、"では、また。"と無意識に感謝を込めて挨拶してしまっていた。

何故かはわからんけど、この出会いが有り難いものだと思えたからなのだろう。

 

このご時世でソーシャルディスタンスを保てだとか、知らない人と安易に話をするなだとか、諸々用心すべき時代だというのも重々承知はしている。

でも、だからこそ、直感で危険性をほぼほぼ感じないような偶然の出会いには警戒心を解いてみてもよいのでは?

全てに対して警戒心や猜疑心を抱いたまま、自身の世界を拡げる可能性を閉ざしてしまうのは勿体ないとさえ思ってしまうから。

そうすることで価値があるかどうかは断言できない。ましてや安全を100%担保することすらできない。

でも、多少不満や後悔が生じてしまったとしても、其れですら経験値を増やし感性を伸ばしてくれるもんじゃないかな?

 

なにはともあれ、単なる偶然を取るに足らないものと見做してしまうよりも、偶然は回り回って必然への伏線になるもんなんだろな、っと気づくと日常は少しばかり彩り豊かになってくる。

つまらないことはおもしろいことへと昇華できる。自分の世界の見方次第で変えていける筈。

それは最近考え改めた些細なこと。でも、とても大きな、重要なこと。

【サツマイモの日】旬の美味しいものを食すこと。

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表題の記念日として制定された由来は参考までにのちに記述するけれど、兎にも角にも視覚から入って美味そう。

芋羊羹、焼き芋、スイートポテト…。サツマイモを使った甘味を列挙しようとするだけでも甘い物食べたい欲求を増幅させるには十分過ぎる。

 

国産の食材である筈のサツマイモやら栗やらは、和菓子だけでなく洋菓子にも用いる事ができるし、ともすれば炊き込みご飯の具材にもなり得る。

ユーティリティープレイヤーとしての潜在能力の高さを、活かさない選択肢はないとさえ言えよう。

さておき、どちらも本来は甘くて美味しいもの。

美味しさは拮抗しており、甲乙付け難いと個人的には思うておる。

 

さて、10月は季節柄サツマイモの旬であり、江戸〜川越の距離が約13里(約52km)なので、"栗(九里)より(四里)うまい十三里"と言われていたことが始まり。

江戸時代、サツマイモの名産地で知られた川越が江戸から川越街道を通り、約十三里 (約52km) の距離であったことに因ん

で、

(栗)九里+(より)四里=(うまい)十三里

の足し算の式として言葉遊びで洒落たものだというのが由来だそう。

 


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当時では、士農工商などの身分差は未だ存在していたのだろうけれど、こういった庶民間の言葉遊びがキッカケで流行りが生まれ現代まで受け継がれて来ていることを思うと微笑ましくもあり、先人たちの文化に感謝したくもなる。

 

どのような状況下でも、ユーモアを以て現況を面白可笑しく捉えて表現すること。

楽しくなるか否かは、とどのつまり自分自身の心次第で変えられる範疇なのやもね。

無理だけはせぬこと。一旦止まって考えよう。

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常に全力投球。やるべきことがあるのにサボったり怠けたりすることなぞ、言語道断。

"疲れない?"とか聞かれても、走り続けるぐらいのほうが丁度良い。寧ろ、そのほうがいい。

そういう真面目過ぎる人も相対的に見れば少数であれど、意外と多くいらっしゃるかもしれない。

そんなとき、そんな人たちこそ、たまには休め。ただ只管に、そう思う。

 

俗に言う働きアリの法則だとかパレートの法則だとか、全体の割合だと概ね8:2程度の比率で労働力やら負荷やらが分けられてしまう環境が世の中で広く当て嵌まってしまうことが皮肉なもんだな、と思ってしまう。

働きアリの法則 - Wikipedia

働き蟻のうち、よく働く2割のアリが8割の食料を集めてくる。
よく働いているアリと、普通に働いている(時々サボっている)アリと、ずっとサボっているアリの割合は、2:6:2になる。
よく働いているアリ2割を間引くと、残りの8割の中の2割がよく働く蟻になり、全体としてはまた2:6:2の分担になる。
よく働いているアリだけを集めても、一部がサボり始め、やはり2:6:2に分かれる。
サボっているアリだけを集めると、一部が働きだし、やはり2:6:2に分かれる。
解説[編集]
日本の生態学者・長谷川英祐(北海道大学)が社会生物学(進化生態学)の見地から詳しく研究し、一般向けの解説書を出している[8][8]。それによると、働く蟻と働かない蟻の差は「腰の重さ」、専門的に言うと「反応閾値」によるという。アリの前に仕事が現れた時、まず最も閾値の低い(腰の軽い)アリが働き始め、次の仕事が現れた時には次に閾値の低いアリが働く、という形で、仕事の分担がなされている。仕事が増えたり、最初から働いていたアリが疲れて休むなどして仕事が回ってくると、それまで仕事をしていなかった反応閾値の高い(腰の重い)アリが代わりに働きだす。

一見サボっているように見えるアリの存在が、コロニー (Colony (biology)#Social colonies) の存続に大きな役割を果たしている。仮に全てアリが同じ反応閾値であると、すべてのアリが同時に働き始め、短期的には仕事の能率が上がるが、結果として全てのアリが同時に疲れて休むため、長期的には仕事が滞ってコロニーが存続できなくなることがコンピューターシミュレーション (Computer simulation) の結果から確認されている。閾値が低いアリはほとんど働かないまま一生を終えることもあり得るが、そのようなアリがいる一見非効率なシステムがコロニーの存続には必要である。

ここで言う「アリ」は「ヒト(人間)」に、「アリのコロニー」は「ヒト(人間)の共同体」にたとえられる。ここで言うサボっているのを言いかえれば、予備部隊(交代部隊)や独立要因に当てはまる。ながらく経験則に過ぎなかったが、近年は研究が進んでおり、例えば「働いているアリだけを集めると一部がサボりはじめる」という法則は長谷川らが証明し、2012年に『Journal of Ethology』(日本動物行動学会)に論文として発表された[9][10]。昆虫の社会を研究することで、生物のシステムにおける共同の起源に迫ることが期待されている。

 

私自身が以前属していた職場もそんなんだったので、呆れを通り越して性悪の怠け者は変えられんから仕方ないか、と冷めた目で見ていても、心のどこかで変化に一縷の望みを見出したかった。信じようとした筈だった。

問題提起や改善提案をするも同調はされてもそのまま、問題点は明白なのに責任者も"お仲間"の怠慢は看過する。

"もういい、知らん。"自分の中で躍起になっていた気持ちが一切合切急速冷凍された瞬間が不意にやってきた。

 

 

 

不幸中の幸いか、私はやりたいこともある程度決めていたし、気持ちが塞いでしまう前に退職できたので有給休暇消化中にリフレッシュできたけれど、現在もし合わない環境等で消耗しかけている人がいるのなら、できる限り早めに一旦休んでほしい。

(懐刀の鞘を抜く気分で退職届を正式に提出し、諸々担当業務の引き継ぎさえ済ませりゃようやっと解放される!などと嬉々としていた、或る意味での不届者なのは否めないけど。)

語弊は生じるけれど殆どの会社はいなくなる社員の代替としての労働力を探して用意しようとするけれど、その人自身の人生を保証してくれる筈はない。

保証してくれるんなら、怠け者に飴を与え働き者に更に鞭を打つような真似はするまいよ?ってことだし。


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実際に体験した嫌な記憶はデバイス上のデータの如くボタン二つ操作する程度で削除できれば苦労ないけど、そうは問屋が卸さぬもの。

時折なにかの拍子に連想してしまうことがあり嫌な気分になるけど、そればっかりは時が癒してくれるのを待つか、真正面から受け止めつつも改善してゆくための糧としてゆくか、思い出を書き換えて赦すか、将来の為にどうするかを選択できる権利は誰にも与えられると思う。

 

これから先の幸せの為に、今は一旦立ち止まって休む。

精密機器の類だって充電や放電を要するし、三歩前進するために二歩下がって足踏みするときすらあってもよい。

”今120%超で取り組んでいることは、これから先も続けたいこと?本当に心底やりたいこと?”

その問いに対して二つ返事できぬ場合、立ち止まって見直す必要はあると思う。

 

大丈夫。知っている世界から測るとどうにもならなそうな気がしても、案外なんとかなってゆくもの。

それだけは信じて疑わずに、周囲を大事にして人生を愛するには、先ず自分を大事にすること。それに尽きる。