黒と白のあいだの

多様性社会で生きる彼是をつらつらと書き連ねる。

不思議な出会いも大切にしたいと思った話。

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ここ最近、不思議な偶然の出会いが多くある(ように感じる)。

単に会社勤めを辞めたことで比較的自由な時間に活動しているからなだけかも知れんけど。

偶然だとしても琴線に触れるような出会いは必然性のあるものと捉えたいがゆえ、何らかのご縁かと勝手に解釈することにしている。

 

先ず一つ、近所の野良猫(冒頭の画像のように耳の近くに斑模様がある、白ベースの毛並みで奇麗な瞳の猫)が自宅のベランダによく来るようになった。

先月頃から近所の公園周辺ではよく出くわしていたけれど、ちょいちょい外を眺めながらPC作業をしていると窓の外に居るのを確認できる。

一応は野生動物なので、安易に餌は与えては結果的に可哀想になるので決して餌付けはせん。

懐いてはいない、、のか?(ベランダに出て呼びかけると近くまでは来るけど、決して触れる距離までは来ない。)

"目的はなんぞや?" 聞き出せるものなら問うてみたいと思うけど、このぐらいの距離感がお互い丁度いいんだろう、多分。

取り敢えず食べ物も出されないのに来るってことは、まあ悪くは思われてないと仮定しておく。

そんな"良い加減"なご近所付き合いが増えたってことを良きと感じた。

 

次に、先週地元のバスに乗った際に見知らぬ洒脱な年配の貴婦人から話しかけられて喋り込んだこと。

小雨が降っており少し肌寒い日だったからか天気や気温の話から始まり、"仕事辞めたあとで人生遊び尽くすのが楽しい!"とか、"知らない人と出会って喋ることも大事よね"、とか、数分前まで面識も全くない人だったが頗る楽しく談笑できた。

再会する確証なんてないけれど、御婦人が降車される際には、"では、また。"と無意識に感謝を込めて挨拶してしまっていた。

何故かはわからんけど、この出会いが有り難いものだと思えたからなのだろう。

 

このご時世でソーシャルディスタンスを保てだとか、知らない人と安易に話をするなだとか、諸々用心すべき時代だというのも重々承知はしている。

でも、だからこそ、直感で危険性をほぼほぼ感じないような偶然の出会いには警戒心を解いてみてもよいのでは?

全てに対して警戒心や猜疑心を抱いたまま、自身の世界を拡げる可能性を閉ざしてしまうのは勿体ないとさえ思ってしまうから。

そうすることで価値があるかどうかは断言できない。ましてや安全を100%担保することすらできない。

でも、多少不満や後悔が生じてしまったとしても、其れですら経験値を増やし感性を伸ばしてくれるもんじゃないかな?

 

なにはともあれ、単なる偶然を取るに足らないものと見做してしまうよりも、偶然は回り回って必然への伏線になるもんなんだろな、っと気づくと日常は少しばかり彩り豊かになってくる。

つまらないことはおもしろいことへと昇華できる。自分の世界の見方次第で変えていける筈。

それは最近考え改めた些細なこと。でも、とても大きな、重要なこと。

【サツマイモの日】旬の美味しいものを食すこと。

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表題の記念日として制定された由来は参考までにのちに記述するけれど、兎にも角にも視覚から入って美味そう。

芋羊羹、焼き芋、スイートポテト…。サツマイモを使った甘味を列挙しようとするだけでも甘い物食べたい欲求を増幅させるには十分過ぎる。

 

国産の食材である筈のサツマイモやら栗やらは、和菓子だけでなく洋菓子にも用いる事ができるし、ともすれば炊き込みご飯の具材にもなり得る。

ユーティリティープレイヤーとしての潜在能力の高さを、活かさない選択肢はないとさえ言えよう。

さておき、どちらも本来は甘くて美味しいもの。

美味しさは拮抗しており、甲乙付け難いと個人的には思うておる。

 

さて、10月は季節柄サツマイモの旬であり、江戸〜川越の距離が約13里(約52km)なので、"栗(九里)より(四里)うまい十三里"と言われていたことが始まり。

江戸時代、サツマイモの名産地で知られた川越が江戸から川越街道を通り、約十三里 (約52km) の距離であったことに因ん

で、

(栗)九里+(より)四里=(うまい)十三里

の足し算の式として言葉遊びで洒落たものだというのが由来だそう。

 


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当時では、士農工商などの身分差は未だ存在していたのだろうけれど、こういった庶民間の言葉遊びがキッカケで流行りが生まれ現代まで受け継がれて来ていることを思うと微笑ましくもあり、先人たちの文化に感謝したくもなる。

 

どのような状況下でも、ユーモアを以て現況を面白可笑しく捉えて表現すること。

楽しくなるか否かは、とどのつまり自分自身の心次第で変えられる範疇なのやもね。

無理だけはせぬこと。一旦止まって考えよう。

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常に全力投球。やるべきことがあるのにサボったり怠けたりすることなぞ、言語道断。

"疲れない?"とか聞かれても、走り続けるぐらいのほうが丁度良い。寧ろ、そのほうがいい。

そういう真面目過ぎる人も相対的に見れば少数であれど、意外と多くいらっしゃるかもしれない。

そんなとき、そんな人たちこそ、たまには休め。ただ只管に、そう思う。

 

俗に言う働きアリの法則だとかパレートの法則だとか、全体の割合だと概ね8:2程度の比率で労働力やら負荷やらが分けられてしまう環境が世の中で広く当て嵌まってしまうことが皮肉なもんだな、と思ってしまう。

働きアリの法則 - Wikipedia

働き蟻のうち、よく働く2割のアリが8割の食料を集めてくる。
よく働いているアリと、普通に働いている(時々サボっている)アリと、ずっとサボっているアリの割合は、2:6:2になる。
よく働いているアリ2割を間引くと、残りの8割の中の2割がよく働く蟻になり、全体としてはまた2:6:2の分担になる。
よく働いているアリだけを集めても、一部がサボり始め、やはり2:6:2に分かれる。
サボっているアリだけを集めると、一部が働きだし、やはり2:6:2に分かれる。
解説[編集]
日本の生態学者・長谷川英祐(北海道大学)が社会生物学(進化生態学)の見地から詳しく研究し、一般向けの解説書を出している[8][8]。それによると、働く蟻と働かない蟻の差は「腰の重さ」、専門的に言うと「反応閾値」によるという。アリの前に仕事が現れた時、まず最も閾値の低い(腰の軽い)アリが働き始め、次の仕事が現れた時には次に閾値の低いアリが働く、という形で、仕事の分担がなされている。仕事が増えたり、最初から働いていたアリが疲れて休むなどして仕事が回ってくると、それまで仕事をしていなかった反応閾値の高い(腰の重い)アリが代わりに働きだす。

一見サボっているように見えるアリの存在が、コロニー (Colony (biology)#Social colonies) の存続に大きな役割を果たしている。仮に全てアリが同じ反応閾値であると、すべてのアリが同時に働き始め、短期的には仕事の能率が上がるが、結果として全てのアリが同時に疲れて休むため、長期的には仕事が滞ってコロニーが存続できなくなることがコンピューターシミュレーション (Computer simulation) の結果から確認されている。閾値が低いアリはほとんど働かないまま一生を終えることもあり得るが、そのようなアリがいる一見非効率なシステムがコロニーの存続には必要である。

ここで言う「アリ」は「ヒト(人間)」に、「アリのコロニー」は「ヒト(人間)の共同体」にたとえられる。ここで言うサボっているのを言いかえれば、予備部隊(交代部隊)や独立要因に当てはまる。ながらく経験則に過ぎなかったが、近年は研究が進んでおり、例えば「働いているアリだけを集めると一部がサボりはじめる」という法則は長谷川らが証明し、2012年に『Journal of Ethology』(日本動物行動学会)に論文として発表された[9][10]。昆虫の社会を研究することで、生物のシステムにおける共同の起源に迫ることが期待されている。

 

私自身が以前属していた職場もそんなんだったので、呆れを通り越して性悪の怠け者は変えられんから仕方ないか、と冷めた目で見ていても、心のどこかで変化に一縷の望みを見出したかった。信じようとした筈だった。

問題提起や改善提案をするも同調はされてもそのまま、問題点は明白なのに責任者も"お仲間"の怠慢は看過する。

"もういい、知らん。"自分の中で躍起になっていた気持ちが一切合切急速冷凍された瞬間が不意にやってきた。

 

 

 

不幸中の幸いか、私はやりたいこともある程度決めていたし、気持ちが塞いでしまう前に退職できたので有給休暇消化中にリフレッシュできたけれど、現在もし合わない環境等で消耗しかけている人がいるのなら、できる限り早めに一旦休んでほしい。

(懐刀の鞘を抜く気分で退職届を正式に提出し、諸々担当業務の引き継ぎさえ済ませりゃようやっと解放される!などと嬉々としていた、或る意味での不届者なのは否めないけど。)

語弊は生じるけれど殆どの会社はいなくなる社員の代替としての労働力を探して用意しようとするけれど、その人自身の人生を保証してくれる筈はない。

保証してくれるんなら、怠け者に飴を与え働き者に更に鞭を打つような真似はするまいよ?ってことだし。


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実際に体験した嫌な記憶はデバイス上のデータの如くボタン二つ操作する程度で削除できれば苦労ないけど、そうは問屋が卸さぬもの。

時折なにかの拍子に連想してしまうことがあり嫌な気分になるけど、そればっかりは時が癒してくれるのを待つか、真正面から受け止めつつも改善してゆくための糧としてゆくか、思い出を書き換えて赦すか、将来の為にどうするかを選択できる権利は誰にも与えられると思う。

 

これから先の幸せの為に、今は一旦立ち止まって休む。

精密機器の類だって充電や放電を要するし、三歩前進するために二歩下がって足踏みするときすらあってもよい。

”今120%超で取り組んでいることは、これから先も続けたいこと?本当に心底やりたいこと?”

その問いに対して二つ返事できぬ場合、立ち止まって見直す必要はあると思う。

 

大丈夫。知っている世界から測るとどうにもならなそうな気がしても、案外なんとかなってゆくもの。

それだけは信じて疑わずに、周囲を大事にして人生を愛するには、先ず自分を大事にすること。それに尽きる。


 

生きるために、必要な無駄を愛すること。

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"時は金なり。" 此の諺は真理なのだろうし、反論の余地も殆どないものと思う。

けれども、無駄な時間の一切が散財に値する訳でもないってことも併せて信じておる次第。

一見すると価値が乏しい行動や消費でさえ、その人の心に齎すものが大きければ、"無駄だ"などと言い捨ててやる筋合いはなくなるから。

 

例えば当て所なく散歩して空いた時間を過ごすこと。

その行為そのものが齎す数字は単に歩いた分のカロリー消費ぐらいだろうけれど、その過程で季節の移ろいを感じたり、新しいお店を見つけたり、珍しい動植物に出くわしたり、思わぬ恩恵も享受できることがある。

そんな付加価値というか散歩に出たからこそ気づくこと、見つけるもの、思いついたアイデア、などなど決して惰性で時間(=金)を浪費するのではなく様々な財産(=経験や発見)を増やすことができる。

それは無駄になるだろか?否、断じて無駄になり得まい、と思う。


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見栄の為に身の丈を大幅に超過した購買で毎月の生活がカツカツだとか、借金を返済するための博打というか賭け事の類を繰り返すだとか。

そんなんやってると人生の余白を楽しむどころか、常に見えない何かに追われて圧迫されて生きている心地がしなくなってくるに違いない。余白がない状態で不要なもののみが敷き詰められて足の踏み場もない感覚、だろうか?

"悪銭身につかず。" 此の諺もまた真理と思う。財産もそうだし、人間関係についても又然り。

出会いも別れも。(或るバンドの90年代の曲を思い出した人もいるかも知れないけど、本当にそうだと思う。)

 

閑話休題。本当に豊かな人生とは資産的価値を持ちそうにないものに対しても価値を見出だせる心を持って楽しめる人生なんだろうな、って信じているし、そういう人になりたいと思いながら日々過ごしている。

時々は心や視野が狭くなり後悔するような言動を取ってしまうけれど、ふと気持ちに違和感を覚えたら一旦深呼吸するなどして自身の本音と向き合うのが良き。

 

突然理不尽被る瞬間がやって来ようとも、冷静且つ毅然とした対応を取る為に人生には常に大事な余白を設けておきたい。

いずれやってくる大事なものを受け容れる為にも、ね。

だから、無駄は、大事。 其れを体現するべく人生を楽しみたい。


 

解釈と視点を変えてゆくキッカケ

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明日10月10日は、一年を通して最も記念日が多い日だそう。

本来の祝日である体育の日を除いても、語呂合わせの意味も兼ねて10月10日は汎用性が高いのでしょうなと腑に落ちました。

そんでもって、その前日である本日10月9日も、日本国内では語呂合わせで以下の記念日もあるとのこと。

 

★トラックの日
全日本トラック協会が制定。(「"ト(=10)",ラッ"ク(=9)"」)

★塾の日
国学習塾協会が制定。(「"じゅ(=10)","く(=9)"」)

★道具の日

浅草の調理具専門店街・かっぱ橋道具街が制定。(「"どう(=10)","ぐ(=9)"」)

★東急の日
東急グループが制定。(「"とう(=10)","きゅう(=9)"」)

 

後付けであろうと感じるかたもいらっしゃるかも知れないし、語弊があるけれど或る意味ではしょーもないと言うだけで片付けてしまうこともできる(ごめんなさい)。

けれど、だからこそ(?)日頃から些事に対しても面白おかしい表現を考えて解釈や自分の中の価値観を更新してゆくもまた一興なのでは?なんてことを思っている。

点と点は意外なところから線で繋がっていたりするもんでもあるし、無駄に思えることに最大のヒントが隠されていたりもする。

 

値上げラッシュ含め消費者側が苦心することが多々あるこの頃だからこそ、せめて自分が世界を見る視点では、事実に対する解像度を上げるばかりでなくレンズの色ごと変えて眺めてみては如何だろか?

面白からぬ出来事に対しては、暈かして見ると滑稽に思えて笑い飛ばせることも存外あるよ、と。


 

【HSPさん】あるある?美容院で気力使うことへの個人的対策

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ファッションやコスメなど、美容に関するものは好き。興味関心もあり美意識も割合高めに保っていたい。

だけれどその一方で、美容院に行ったあとは気力を使い切ってしまう。そんな人も存外多いハズ。

なにゆえだろうか?当方が学生時代から長年感じてきたこの疑問に対して内向型HSPさんの特性を加味して考察し、あくまで自分なりの解を導き出してみました。

 

①来店前の予約:架電して予約する際、忙しい美容師さんに受電及び手続きをする手間を取らせてしまうのではないか?

⇛昨今ではWebやアプリでの予約が24時間可能である店舗が多く存在するので、ネット予約で完結させる。

 

②サロン内にて(会話):店内の人数が多いか?他のお客さんたちの様子、美容師さんとの雑談などは?

⇛1.元来人混みも苦手なため、プライベートサロン等席数の少ない店舗を選ぶ。

⇛2.昨今話題の雑談なしメニューの有無を事前にリサーチしておく。落ち着いた外観で繁華街から少し離れたサロンを選ぶ。

 

③サロン内にて(匂いや音声):カラーやパーマ剤の匂いは?BGMやドライヤーの音は?

⇛1.できる限りカラーやパーマはせず地毛の髪質を活かしてスタイリングし易くカットしてもらう。

⇛2.概ね落ち着いた雰囲気のサロンを選べばBGMもそれに伴いリラックスできる音楽が流れている。

⇛3.ドライヤーの音は、ブローの際に質問されたことさえ聞き逃さず答えるようにすればよいと割り切る。

 

④カット後の仕上がりについて:オーダーと少し違うかもと思ったときや、切り足りない箇所を伝えづらい?

⇛(プロに仕事を依頼することなので)修正や追加を料金や時間内の範囲で可能なことは確り伝えるほうが自分も美容師さんも後腐れなく過ごせるであろうから、角を立てない表現でお願いする。

 

⑤次回来店以降:予定を考えた日時に予約が埋まっているときは?暫く来店できず久々に行くときは?

⇛1.その当日や翌日も予約できないときは、やむを得ず他のサロンを検索して行く。(やりたいスタイルにもよりけり。)

⇛2.今後もその担当の美容師さんにお世話になりたい場合、立て込んでなさそうであれば挨拶も兼ねてご無沙汰している旨をお詫びする。

 

以上、あくまで個人的に気にしてしまいがちなポイントに対しての自分なりの答えです。

人其々思うことや価値観は異なるので一概には言えないため、絶対的な回答がないことが人間同士が関わってゆくことの難しさであり醍醐味なのだろうなと思う今日この頃。

 

戦争反対!暴力だけでは変えられないもの。


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今朝方衝撃的なニュースを拝見した。昨今のロシアのウクライナ侵攻も一刻も早い解決を願う次第ではあるけれど、北朝鮮によりミサイルが発射され、日本列島上空を越え太平洋へ落下したとのこと。

ここ一ヶ月程度のEEZ外への威嚇射撃の類から本格的な警告のつもりで斯くの如き愚行へうつったのだろうかと?

結局は双方とも国の長たるべき者のエゴでしかないのに、何故に罪のない市民たちが戦争へ巻き込まれ、或いは戦地へ無理矢理駆り出され隣国の友を手にかけざるを得なくさせてしまうのだろう?

 

いつぞやか知人と談笑している際に、「正義の反対はもう一つの正義だ。」というフレーズを聞いたことがある。

武力行使により戦争をけしかけるスケールの話では断じてないけれど、人の数ほど信じる其々の正義は存在するってこと。

平和を願い微力でも慈善活動を行なう人たちの正義もあれば、暴力のみで万事制圧する輩もまた当人たちにとっては正義なのだろうか?

それこそ思想や信仰は自由が保証されるべきもんではあるけど、行動理念や無関係な人たちへの敬意や命の尊厳を無視する行為は存在し得てはならないのでは?

そんな思考を先程まで反芻してしまっており、何れにせよ望ましいものではない。


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日本は余程のことがない限り、飢餓や貧困には何某かの策は講じられている分、或る意味では発展途上国より平和かもしれないと考えることはできる。

ただ、相違的に見ると経済面では上位に食い込む筈なのに国民全体の満足度が低く経済格差は拡がる一方。

コロナ対策は過剰にするよう求められる一方、その受け取り方も街中を見る限り個人差によるところが大きいと言うのが明らかだ。

だから、皆が平和にかまけてばかりで思考停止になってはいかんと考え改めてほしい。なんてことを常に思ってしまう。

でも、すぐ変えることのできない他人に変わることを求めるという正義。此れも或る意味では正義感の押し売りだし、広義では物理的ではない暴力になるんだろう、と反省する。

考えすぎると堂々巡りになってしまうので、思考はいつも突き詰めてシンプルに到達できるよう努めたい、でき得る限り。

 

★結論:他人に変わることを求める正義より、自分が言葉より行動で示す正義。先ずは僅少な一歩ずつ進んでゆきたく。