この世の中、表現はし難いけれどなんだか生きづらさを感じる。大なり小なりそう感じている人は決して少なくない。
一体なぜか? 想像するに物質主義や資本主義の既成概念が未だに蔓延っており、更にはSNSで他人の生活のキラキラした側面のみを垣間見ることができ、その部分を自身のリアルと比較してしまうことで劣等感を植え付けられてしまうから。
俗に言う風の時代。これからは個々が輝き、物質や資本よりも精神性や感性を重視されると予期される一方で、個の時代が本格的に浸透するまでには発展途上でしかない模様。
幼少期から始まり、大人になってからでも誰しも公私何れにせよ劣等感に苛まれてしまう時は訪れる可能性はある。
他人のポジティヴな部分のみを切り取ったリアルとフィクションを混在させた投稿には、希望を抱く可能性も内包する一方で、自己嫌悪になる可能性も十二分にある。
結局、人はそうして生じた自身の劣等感と向き合うことから逃れるため、他人の至らぬ部分を責め立てて侮辱し仮初めの優越感に浸り安心したていで過ごす。
自身の劣等感と向き合う作業は一時的には苦行にも似たもの。でも、だからこそ、"それ"から逃げることなく自己対話を遂行し無条件に受容し肯定してあげることで少しずつ本質的に乗り越える方向へ向かうできる。
人生に於いてどん底だと感じるときが訪れても、決して世界を恨むことをせず、自己憐憫をするのではなく辛さを受け入れつつも"自分のために"これまでの苦難や不条理を赦してやること。
もし仮に社会が決めた"当たり前"の基準に到達していなくとも、またそのことで他人から余計なことを言われたとしても、其れ等をすべて真に受けて落ち込んでやる必要はない。
自分の人生や幸せの尺度を他人の勝手な基準で測られる筋合いもないし、生きている間どうあろうとも幸せになることを放棄しては勿体ない。
本当に大事なのは自分の頭で考え、信念を持ち、自分の意思で人生を選択して自分が望む幸せを見つけること。
所謂"当たり前"に対しては、常にその妥当性を考察する姿勢は持っておらなば、と思って生きるぐらいで丁度良いかもしれんね。