黒と白のあいだの

多様性社会で生きる彼是をつらつらと書き連ねる。

無理だけはせぬこと。一旦止まって考えよう。

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常に全力投球。やるべきことがあるのにサボったり怠けたりすることなぞ、言語道断。

"疲れない?"とか聞かれても、走り続けるぐらいのほうが丁度良い。寧ろ、そのほうがいい。

そういう真面目過ぎる人も相対的に見れば少数であれど、意外と多くいらっしゃるかもしれない。

そんなとき、そんな人たちこそ、たまには休め。ただ只管に、そう思う。

 

俗に言う働きアリの法則だとかパレートの法則だとか、全体の割合だと概ね8:2程度の比率で労働力やら負荷やらが分けられてしまう環境が世の中で広く当て嵌まってしまうことが皮肉なもんだな、と思ってしまう。

働きアリの法則 - Wikipedia

働き蟻のうち、よく働く2割のアリが8割の食料を集めてくる。
よく働いているアリと、普通に働いている(時々サボっている)アリと、ずっとサボっているアリの割合は、2:6:2になる。
よく働いているアリ2割を間引くと、残りの8割の中の2割がよく働く蟻になり、全体としてはまた2:6:2の分担になる。
よく働いているアリだけを集めても、一部がサボり始め、やはり2:6:2に分かれる。
サボっているアリだけを集めると、一部が働きだし、やはり2:6:2に分かれる。
解説[編集]
日本の生態学者・長谷川英祐(北海道大学)が社会生物学(進化生態学)の見地から詳しく研究し、一般向けの解説書を出している[8][8]。それによると、働く蟻と働かない蟻の差は「腰の重さ」、専門的に言うと「反応閾値」によるという。アリの前に仕事が現れた時、まず最も閾値の低い(腰の軽い)アリが働き始め、次の仕事が現れた時には次に閾値の低いアリが働く、という形で、仕事の分担がなされている。仕事が増えたり、最初から働いていたアリが疲れて休むなどして仕事が回ってくると、それまで仕事をしていなかった反応閾値の高い(腰の重い)アリが代わりに働きだす。

一見サボっているように見えるアリの存在が、コロニー (Colony (biology)#Social colonies) の存続に大きな役割を果たしている。仮に全てアリが同じ反応閾値であると、すべてのアリが同時に働き始め、短期的には仕事の能率が上がるが、結果として全てのアリが同時に疲れて休むため、長期的には仕事が滞ってコロニーが存続できなくなることがコンピューターシミュレーション (Computer simulation) の結果から確認されている。閾値が低いアリはほとんど働かないまま一生を終えることもあり得るが、そのようなアリがいる一見非効率なシステムがコロニーの存続には必要である。

ここで言う「アリ」は「ヒト(人間)」に、「アリのコロニー」は「ヒト(人間)の共同体」にたとえられる。ここで言うサボっているのを言いかえれば、予備部隊(交代部隊)や独立要因に当てはまる。ながらく経験則に過ぎなかったが、近年は研究が進んでおり、例えば「働いているアリだけを集めると一部がサボりはじめる」という法則は長谷川らが証明し、2012年に『Journal of Ethology』(日本動物行動学会)に論文として発表された[9][10]。昆虫の社会を研究することで、生物のシステムにおける共同の起源に迫ることが期待されている。

 

私自身が以前属していた職場もそんなんだったので、呆れを通り越して性悪の怠け者は変えられんから仕方ないか、と冷めた目で見ていても、心のどこかで変化に一縷の望みを見出したかった。信じようとした筈だった。

問題提起や改善提案をするも同調はされてもそのまま、問題点は明白なのに責任者も"お仲間"の怠慢は看過する。

"もういい、知らん。"自分の中で躍起になっていた気持ちが一切合切急速冷凍された瞬間が不意にやってきた。

 

 

 

不幸中の幸いか、私はやりたいこともある程度決めていたし、気持ちが塞いでしまう前に退職できたので有給休暇消化中にリフレッシュできたけれど、現在もし合わない環境等で消耗しかけている人がいるのなら、できる限り早めに一旦休んでほしい。

(懐刀の鞘を抜く気分で退職届を正式に提出し、諸々担当業務の引き継ぎさえ済ませりゃようやっと解放される!などと嬉々としていた、或る意味での不届者なのは否めないけど。)

語弊は生じるけれど殆どの会社はいなくなる社員の代替としての労働力を探して用意しようとするけれど、その人自身の人生を保証してくれる筈はない。

保証してくれるんなら、怠け者に飴を与え働き者に更に鞭を打つような真似はするまいよ?ってことだし。


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実際に体験した嫌な記憶はデバイス上のデータの如くボタン二つ操作する程度で削除できれば苦労ないけど、そうは問屋が卸さぬもの。

時折なにかの拍子に連想してしまうことがあり嫌な気分になるけど、そればっかりは時が癒してくれるのを待つか、真正面から受け止めつつも改善してゆくための糧としてゆくか、思い出を書き換えて赦すか、将来の為にどうするかを選択できる権利は誰にも与えられると思う。

 

これから先の幸せの為に、今は一旦立ち止まって休む。

精密機器の類だって充電や放電を要するし、三歩前進するために二歩下がって足踏みするときすらあってもよい。

”今120%超で取り組んでいることは、これから先も続けたいこと?本当に心底やりたいこと?”

その問いに対して二つ返事できぬ場合、立ち止まって見直す必要はあると思う。

 

大丈夫。知っている世界から測るとどうにもならなそうな気がしても、案外なんとかなってゆくもの。

それだけは信じて疑わずに、周囲を大事にして人生を愛するには、先ず自分を大事にすること。それに尽きる。