「予祝」:豊作や多産を祈って,一年間の農作業や秋の豊作を模擬実演する呪術行事。農耕儀礼の一つとして〈予祝行事〉が行われることが多い。あらかじめ期待する結果を模擬的に表現すると,そのとおりの結果が得られるという俗信にもとづいて行われる。小正月に集中的に行われ,農耕開始の儀礼ともなっている。一種の占いを伴うこともある。庭田植(にわたうえ),繭玉(まゆだま),粟穂稗穂(あわほひえぼ),鳥追,成木(なりき)責めなど地方色豊かなものが多い
この言葉の古来の意味としては上記引用の通り、豊作を祈願(≒前祝い)してするために行われるものであったそう。
願掛けのようなものだし、現代の日本のように食料等の物資が飽和状態にあったわけではなかろうから、其の様な儀式が行われていたのは至極当然なのだろうとさえ思う。
食料も当然長期保存は厳しいし、穫れなければ食べれない。
現代人には想像し難いけど、そんな時代だったのだろうし。
情報ツールや人工知能の進化に伴い、現代では文明の利器の恩恵を至るところで享受できる。
其れは本来贅沢なことであり、当たり前な事ではなかった。其れが当たり前な今、そしてこれからの時代。
物質やデジタルサービスは供給過剰になりつつあり進化し続ける一方、精神的な満足は人によりけりなのが現状。
SNSで承認欲求を満たすための実生活と乖離した虚像だったり、その辻褄合わせとして苦境を強いられる実像。
キラキラした日常を過ごしているような(ように見える)人は、過去に血の滲む努力をしたか、想像を絶する苦労をしたか、だったりもする。
他人からは側面を1つか2つぐらいしか見る事ができないので本質なんぞ殆どがわからないよ。
人生はトータルでプラスマイナス0だなんて言うけれど、言ってしまえば過去やら現在の状況は捉え方次第で何方にも大きく振れ幅を変えることができる。
だったら、可能な限りプラスに解釈して感謝していけば雪だるま式にプラスの出来事や感情が増えていくのでは?
「現在どん底にいるんだが?」って思っている人とているだろう。
でも、だからこそ、表題に記した”予祝”という望む現実を手に入れたことへの前祝い(祈願)をする価値はある。
本当にどん底にいると思ってるなら全てに於いて諦観を持たず、何某かの習慣を変えたらいい。
何も変えなければ大逆転なぞ起こる可能性は限りなくゼロに近い。
祈願する際の注意点として、既に手に入れたイメージを強く持ち、現在進行系での感謝をすること。
(例:「望んでいた生活を手に入れました。ありがとうございます!」)
※(「現状●●●●●がないので、こうなりたいです!」っていう表現だと事実であっても、今は足りていないという事に等しいから、この場合良くはない)
足りないことを意識してしまうと、反骨精神に昇華できればいいけど多くの人ってそんなに強くないから気が弱ってしまいがち。
巷でよく言う引き寄せの法則の原則として、望むことを叶えた自分を潜在意識にまで刷り込むことが大事らしい。
叶った先の人生をイメージして、其れに関連する恩恵をいつでも享受できる準備(遠慮せずにチャンスをすぐ掴む気持ちになる)をすることもまた然り。
机上の空論だとか胡散臭そうだと思う人もいるのは理解できるけど、全てに対して何ら疑念を持たなくなったら騙される可能性も格段に上がってまうから、自身の審美眼を養うのは何に於いても必要。
予祝のルーツを鑑みると食べて生きていく為に必要な儀式ではあったけれど、現代では精神面での豊かさを育てていく為にあると望ましい。そんな風に時代の変遷に合わせ、概念的にも変化したのかな、とこの記事を書きながら思った。
生きていると理不尽やら不平等やらを被ることは少なくないもの。
少々駄文長文になってしまったけど、言霊とも言うように言葉が持つ力は人生に大きく影響するもの。
それゆえに、何があっても不貞腐れたり自暴自棄になってしまわずに、善意を持って綺麗な言葉を使うことを心掛けてほしいし、自身もそうありたい。
言行一致させることと、人としての心を捨てずに生きること。
耐え難い辛いことがあるなら、先ずはその環境から逃れて休むだけでもいい。
泣いた分は後に取り戻して笑えばいい。
明けない夜はないし、止まない雨はない。季節は過ぎゆくともまた巡るもの。
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