「"フツー"にやれば良いんだよ。」この類の文言に対して、違和感を覚える気質の人たちも決して極少数というわけではないのだろう。
「"フツー"とはなんぞや?」と疑問に思うことを禁じ得ない一方で、頭では理解できているがために納得した体で了承してしまう。
敢えて言語化するなら、 "理解はできているけど、納得はできていない。" そんな感覚を覚えがち。
その類の傾向は少数ではあれど持ってしまう人たちもいるのではなかろうか?
知性があり精神年齢が高めな人たちは、幼少期から同年代の子供たちとどこか馴染めなかったり、大人たちから感心されるか、或いは少し変わった子だと思われたり。
それを個性や才能だと理解して才能を開花させてもらえる環境もあれば、周りの子たちと違うだけで様々な心配をされる環境もある。
多様化だの個性を伸ばすだのを推奨されている風潮でありながら、未だに"前へ習え右へ倣え"から脱却しきれていない既成概念が少し痛ましく思う。
"和を以て貴しとなす"の概念は確かに大事だけれど、だからといって他と比べてズレているからそれのみが悪いこととは断言できないのは事実。
自分の考えや意見を持たず、短絡的で同調圧力に流されてしまうのみで生きることは、労力を然程要さないという意味ではラクだろう。(それで良いと本人たちが思うのならそれも否定はできない。)
でも、時には他人や大事な身内の反対を押し切ってでも自分の意志を通すことも生きる上で重要な鍵となる筈。
だからこそ、自分が過去そうであったとかの経験則はあくまで参考程度のものとしておき、本人の意見を持ち自由に表現させてあげられる環境が何処にもあると良いと勝手ながら思う。
諸事情により実現できない夢や目標もあるかもしれない。更には挑戦の途中で道を阻まれることも多々あるかもしれない。
で、やめるか否かの決断も幾度となく迫られるだろう。そこでどう考えるかは本人次第。
夢は信じ続ければ必ず叶うと無責任には言えないし、決して諦めるなとさえも言うことはできない。
ただ一つ必要なことは、自分の頭で考えて最終的に自分で決断をすること。それだけ。
如何程に馬鹿げたことだと思われても継続していれば、人の道を外れることさえしなければ、いつかは誰かの目にとまり僅かでも認めてくれる人は出てくる。
そこまでの道のりや要する年月は予測できないし、気付く範囲ではそれは起こらないかもしれないけれど、"継続は力なり"それは間違いない。
無責任な綺麗事に聞こえがちだけれど、何かしら迷ったときこそやると決めたことを日々継続することがよい。
行き止まりを感じ迷うときこそ淡々とこなして創意工夫をしてゆく。ただ、それだけがいい。
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